
きょう、つくる人 第5回 – Ren・中根嶺
いつからか、機械によって大量生産された工業製品に囲まれていると、私は窮屈さを感じるようになっていた。便利で、それらがないと生活が成り立たないのに、じわじわと窮屈さは広がっていく。それを和らげる ”何か” を模索していた時に、中根嶺さんの金工作品に出会った。金属を丁寧にたたき、磨く工程で刻まれた彼の 「手あと」 がカトラリーやオブジェなどの作品に柔らかな表情を生み出す。その 「手あと」 をなぞると、きゅっと締め付けていた紐がゆるんだような、穏やかな気持ちになってくる。 「手あと」 に宿る ”何か” がそうさせてくれるのだろうか。
そこで第5回の 「きょう、つくる人」 では、中根さんに 「手あと」 の表情がどのように人を惹きつけ、心を動かすのかについて伺うことにした。
Ren 中根嶺
1989 滋賀県に生まれる
京都市立銅駝美術工芸高校 彫刻科卒業
(有)ICHIにて金工を学び結婚指輪の制作、デザインを主に4年半従事
2014 京都に工房を構えRenとして制作を開始
Instagram:https://www.instagram.com/ren_nakane/
取材では、2020年冬にオープン予定の新しい工房を訪ねた。現地に向かうと、工房手前の道でばったり本人に出くわした。「どうも」と笑いかけてくれた彼の表情は、作品と同じく柔らかい。
工房の中に案内してもらうと、すぐ左に作業スペースが、右に目を移すと大小さまざまな作品が並び、奥にはカフェと見間違うほどのおしゃれな空間が広がっている。かつては八百屋、その後は家具屋の倉庫に使われていた築およそ100年の建物を、中根さんが自らの手で改修しているという!すみずみまで見渡したくなる気持ちをおさえ、私はインタビューを始めた。
高校卒業後、縁あって金工の道へ
もうすぐこの工房がオープンするそうですね。早速ですが、ここでどんなことに挑戦されたいですか?
現在、カトラリーやアクセサリー、オブジェなどをつくっていますが、作業スペースが広がったので、インテリアとして空間を彩る大きな作品などもつくっていきたいと思っています。一方で金工は小さなスペースでも作業ができるので、車の中にも工房をつくる予定です。車で旅をしながら、いろいろな土地で感じたインスピレーションをもとに作品をつくってみたいなと。
楽しそうなアイデア!ものづくりは小さな頃からお好きだったのでしょうか。
そうですね。父親が焼き物屋で母親が染織家で、小さな頃からものづくりが身近にありました。中学生の時に友達の影響でバス釣りを始めたけど、僕はルアーをつくる方に熱中したり。

美術系の高校で彫刻を学ばれたそうですが、金工と出会ったのはいつでしたか?
有限会社ICHI(以下、ICHI)に就職した時ですね。高校を卒業した後は進路を絞り切れずに上京して、いろいろなバイトをしていました。でも、ものづくりを生業にしようと思い直し、革製品や金工作品などを手がけるICHIに入社することになって、そこで金工部門に配属されたんです。
金工の道に進んだのは、偶然だったのですね。
むしろ、当時は趣味で革小物をつくっていたのでレザー部門に興味があったんですが、配属が決まって最初は「あっ金属か……」と(笑)でもいざ蓋を開けてみたら、金工の方が性に合っていてのめり込んでいきましたね。
ICHIでは、ブライダルリングの制作を担当されていたそうで。
その他にもお客さんから直接オーダーを受けたり、デザインにも携わらせてもらいました。その後、独立して京都で先輩と工房兼ギャラリーを開いてから、カトラリーやオブジェなどをつくるようになりました。
「手あと」 には、人の気配やストーリーを想像させる 「余地」 がある

金工のどんなところに惹かれて、のめり込むようになりましたか?
素材を加工するには技術がいりますが、最初は全然思い通りにいかなくて。その悔しさがバネになりました。それと金属の素材感ですね。金属に対して硬くて無機質なイメージを持っていましたが、想像以上に柔らかく、道具や処理の仕方次第でいろいろな表情に変化します。例えば銀であれば熱してじゅっと急冷すると白くなったり、凹凸のある金鎚でたたくとそれを写し取ってざらっとした表面になったり。
作品をつくる中で、どんなことを心がけていますか?
金属にあたたかみや柔らかさを感じてもらえるようにつくっています。登山が趣味なんですが、山の中で見る木や石のような自然の中で生み出された有機的な造形には敵わないなと思うことが多々あって、自分の作品でもそのような雰囲気を取り入れられたらと思っています。

有機的な造形を表現するために、作品をつくる過程で刻まれた 「手あと」 が重要ではないかと思いますが、中根さんはクラフト作品、そして 「手あと」 のどんなところが人を惹きつけると思いますか。
もの自体の背後に、人の気配やストーリーを想像させるような 「余地」 があるからだと思います。古いものにも魅力を感じるんですが、その理由を考えると手でつくられた痕跡が残っていたり、人の手に渡って今の時代にまで残っていたりするからで、それは自然が生み出す造形にも似たものがあって。逆に、 「余地」 がないものに囲まれると人は窮屈さを感じてしまうのかなと。
ではどのように作品の中に 「余地」 をつくっていますか?
僕もそこは悩みながらなんですが、良いものをつくりたいというのが大前提で、僕にとっての魅力の一つが 「余地」 で。ただそれだけで良いという訳ではないと思いますし、押し付けがましくなってもよくない。もちろん技術も磨いていかないといけないです。ただ、機械ではつくれないほどの卓越した技術となれば別ですが、技術の方に比重を置くと機械の方が勝っている場合もあります。そのことも認めた上で、自分の手を動かす意味を丁寧に考えながら作業しないといけないと思っています。
作品の中で技術的な美しさと 「余地」 を共存させるために、バランス感覚が求められそうですね。
そうなんです。昔の作り手も「きれいに、丁寧につくりたい」と試行錯誤をした。その結果として、工業製品が生まれたのではないでしょうか。ただ生産性を上げるためだけじゃなくて。

工業製品も、人の思いから生まれた。
金工では道具を介して素材を変形させますが、最初は手で曲げたり切ったりしようとしたはず。でも手作業では無理だから道具を生み出して、その延長線上に機械があると思うんです。以前は工業製品より手でつくられたもの方が良いと思っていた時期もあったんですけど、今は一概に工業製品がよくないとは言えないですね。
では、いつから工業製品も肯定するようになりましたか?
独立してから自分がつくるものに自分で値段をつけるようになって、価値というものと向き合うようになってからです。さらにコロナ禍で不要不急が求められる中で、より自分がつくることの意味を考えるようになりました。僕のつくっているものは、生活に必要不可欠かというとそうではないかもしれないし、もっと安く用途を満たせるものもある。そう考えるとものづくりを生業にできているありがたさにも改めて気づきました。もちろん、工業製品の裏にもより良いものをつくるために奮闘した人がいたはずで。その人の存在も思いも尊いなと。
なるほど。
また、自分だけに限らず、クラフト作品はその制作背景を想像しやすいのかなと思います。お客さんと直接話す機会があれば「あの人がつくったものなんだ」と認識してもらうことができますが、クラフト作品に刻まれた 「手あと」 を見ると、直接お会いしなくてもどんな人がどうやってつくったのかイメージが膨らみます。そうしてものに対する愛着が生まれるのではないでしょうか。
想像力がものに対する愛着を生み出す。
工業製品でもその背景まで想像できると今よりもっと愛着を持てると思います。もしかしたら、今は使い手側にも想像力が求められているのかもしれませんね。
葛藤しながら手を動かした痕跡が、作品の価値を高めていく

現在、カトラリーやアクセサリー、オブジェなどを制作されていますが、どんな作品をつくっている時が一番楽しいですか?
カトラリーには使いやすいように工夫する楽しさが、アクセサリーには身につける人の新しい魅力を引き出せるようにデザインする楽しさが、オブジェには自分の思いを形にする面白さがあります。それぞれの楽しさや面白さがありますね。
では、中根さんの作品はクラフトにもアートにも当てはまると思いますが、それぞれの違いをどのように捉えていますか?
よく考えることではありますが、クラフトという言葉は曖昧だけど使う人がいて初めて成り立つもので、アートはその作品だけで完結するようなものだと思います。僕がつくっているオブジェもアートと捉えてもらえることは嬉しいですが、使い方や置かれる空間によっても見え方が変わるので、そこを楽しんで頂ければと思っています。アートに対してリスペクトがありますので、僕がつくっているものはあくまでクラフトで、暮らしに寄り添うようなものをつくっていきたいです。
なるほど。
また、現在のクラフトは民藝運動などの流れから成立していると思います。かつて、作り手の多くは無名の職人でしたが、今では僕みたいに若い世代で独立して、SNSなどで発信をしている人も増えています。その中で、作品を手に取って買ってもらうために、アートのような個性や作家らしさを分かりやすく示さないといけないシーンが増えてきたかなと。
現在はオンライン市も増えていますし、さらに加速していくのでしょうね。民藝運動から100年の間に、作り手を取り巻く環境がこんなにも変わるとは……。
でも無理に個性を表現し過ぎると、使いやすさや 「余地」 がなくなってしまうかもしれない。今後は、それらのバランスが問われていくと思います。作り手のやりたいこととリンクしていれば問題ないんですが、「それでいいのかな」と思うと手を動かしにくくなってしまう……。でも、こうやって考えながら丁寧に手を動かしていくことが、クラフトに求められることなんだろうなとも思います。

いろいろな葛藤を抱えながら、ものづくりに向き合っていらっしゃるのですね。
でも簡単にいうと、自分はものをつくることが好き。そして、唯一没頭できるものですね。職人としてオーダーをいただいた形をつくる時も楽しいし、自分の表現したいことを形にできた時も面白い。それをありがたいことに生業にできているから、今後も続けていけたらなと。シンプルに、それだけなんです。
私も作り手さんを取材する中で、職人、アーティスト……どの肩書でお伝えしたらいいのか悩む時がありますが、中根さんはものづくりが本当にお好きで、職人としての面も、アーティストの面もどちらも自然に受け入れていらっしゃると思います。
そうですね。肩書も悩ましくて、僕の名刺には ”金工” としか書いてないんです。 ”金工作家” や ”職人” という書き方もありますがしっくりこなくて……。でも僕はそれぞれの良いところをものづくりに活かすことができたらと思います。

肩書という型にはめることなく、ものづくりをしていきたい……。
ICHIにいた時もすごく楽しかったけど、お客さんに「どこからがプロでどこからが職人なんですか?」と質問を受けて、その境目について考えるようになりました。お金をもらっている以上はプロだと思わないといけないんですが、自分で定義することが難しくて。当時はオーダーからデザインまで担当していたけど、ブランドの看板があるから作品に一定の値段がつけられるわけで。だから自分で素材を仕入れて、つくって、値段をつけて、人に手に取ってもらうところまでやってみたい、当時はそれができてプロだといえると思って独立したんです。今ふり返ると、そうではないんですが。
資格のように、わかりやすい基準があるわけではないですものね。
やはり、自分の中にないものは形にできない。いろいろなことを見て、影響を受けて、考えて、深める。そうして手を動かした痕跡が 「手あと」 になって作品の価値を高めていくと思います。
取材後記 – 時間を包み込む 「余地」 –
インタビューの後に、中根さんがカトラリーを制作する様子を見学させてもらった。一打、一打、金属をたたく音は鋭いのに、彼の手さばきは静かで鮮やかだ。そうして刻まれた 「手あと」 が、作品の色合いや表面に変化を生み出していた。
「手あと」 は作り手のこだわりや個性を表すものと思っていたが、今回のインタビューを通じて 「手あと」 に宿る 「余地」 が作り手や使い手の時間を包み込んでいることに気づいた。作り手が考えながら手を動かした時間、使い手が暮らしの中で作品を愛用するであろう時間……そうした時間に思いを巡らす中で 「手あと」 や作品に対する愛着が湧いて、自然と穏やかな気持ちになるのではないだろうか。
取材を終えて銀閣寺道のバス停に向かうと、いつもは観光客で賑わう道が空いており、柔らかな初秋の光がそこかしこを照らしていた。私はその風景を眺めながら、心に抱えていた窮屈さが解けていくのを感じた。
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91年生、岡山出身、京都在住。平日は大阪で会社員、土日はカメラ片手に京都を徘徊、たまに着物で出没します。ビール、歴史、工芸を愛してやみません。
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